いくたび

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いくたびREPORT_01 新潟県南魚沼市

家業のお手伝いから芽生える郷土愛
旅のはじまりは「おかえり、ただいま」の笑顔から
初めてなのに懐かしい、八海山の麓に広がるまちへ
JR越後湯沢駅からほくほく線に乗り換え、魚野川に沿って下るように六日町駅へと向かう車窓から見えるのは、八海山を筆頭に連なる深い緑の山々と、山頂にかかるむくむくとした白い夏雲、そして一面に広がる水田。子どもの頃に母の田舎へ里帰りした夏休みを思い出し、初めての景色のはずなのに、なぜだか懐かしい気持ちになる風景です。
 
南魚沼市は指折りの豪雪地帯。かつては商店街のアーケードが埋まるほど降ったという大量の雪が、春になると一気に解け出し、豊かな雪解け水が田を潤して日本一の南魚沼産コシヒカリを育てます。私が訪れた8月の終わりは、見渡す限り広がる田んぼに、ようやく粒の張ってきた青い稲穂が揺れていました。
鮎釣りのメッカでもある清流 魚野川を渡り、今回の「いくたび」体験の舞台となる「さかとケ」がある古民家ホテル「ryugon」へ。
 
「ryugon」は、かつてお城のあった坂戸山の懐に、この地域に残存していた複数の古民家を集めて再生させた温泉宿です。“雪を回生するホテル”と謳うこのホテルは、日本一雪深いこの地域で、人々が雪と共に循環しながら生きてきた知恵や文化を体感するための場所。
 
その一角に併設されている建物が「さかとケ」で、「ryugon」でのお手伝いと引き換えに無料で「さかとケ」に泊まり、観光やワーケーションができるのです。この素晴らしい宿でどんなお手伝いができるのか、はたして私に務まるのだろうかとドキドキしながら「ryugon」に到着しました。
雪国文化を体験する宿「ryugon」と、“帰る旅”の拠点「さかとケ」
待っていてくださったのは、「ryugon」の経営者である井口智裕さん(株式会社いせん代表取締役)。井口さんが思いを持って取り組んでいる「雪国観光圏」や、「さかとケ」を始めた経緯についてお話しいただきました。
「私は湯沢の『いせん』という旅館の4代目に生まれました。時代が大きく変わる中で、世界にも目を向けつつ観光業の今後の可能性を考えた時、これまでのスキーリゾート一辺倒ではなく、例えば『フランスのワイナリーに一週間泊まりたい』というような旅のリテラシーを持ったお客さまに来ていただける観光にしていくことが必要だと考えました。この地域には、長い時間の中で培われた分厚い雪国文化があります。“非日常”を消費しに行く旅ではなく、雪国の暮らしに入り込むような“異日常”を体験する旅を提供したい。世界にも十分通用するこの価値ある文化を、雪国が広域で連携して提案していこうと、雪国観光圏の取り組みを始めました。これを場として表現したのが『ryugon』です」
さらに井口さんの視座を大きく変えたのがコロナ禍。これをきっかけに、何度も通ってくれる、「ただいま、おかえり」の関係でつながる仲間を増やしたいと感じたそうです。
 
「あの時、お客さまが一人もいない宿を見ながら、私はなぜかワクワクしたんです。観光業が大きく変わる予感がしてね。豪華さを競い合うようなラグジュアリーな旅の一方で、これからはもっとフラットに地域やそこにいる人と関わり合える旅を求める人が、きっと増える。何かしら地域に貢献しながら、地域を楽しみ、大変な時には駆けつけてくれるコミュニティのようなファンを増やしたいと思って立ち上げたのが『さかとケ』なんです」
 
「さかとケ」の「さかと」は坂戸山、「ケ」は「家」。坂戸山の懐にある、もうひとつの帰る「家」。ハウスワーク(家業)を手伝うことで宿泊料が免除になるワークインレジデンスという、地域と旅人との関係づくりのための井口さんの新しい試みなのです。
宿の仲間になってお手伝い
お話の後は、早速エプロンを着けてハウスワークを実践。今回は「ryugon」の客室清掃をお手伝いすることに。お客さまがチェックウトした後の客室に入り、まずはベッドシーツを剥がす作業。
「ひとつのベッドの上に全部のシーツ類を集めて、最後は1枚のシーツでくるんでクリーニングの袋に入れます」
 
と、スタッフの方が優しく要領を教えてくれました。15時頃には今夜宿泊するお客さまがチェックインし始めるので、時間との勝負。
 
ソファなどのファブリック類は、粘着クリーナーをくまなくかけます。手際よく進めながらも、髪の毛1本見逃さないように注意が必要とのこと。
大きなガラス窓の拭き掃除もお手伝い。
 
「光の加減で汚れが見えたり見えなかったりするので、いろいろな角度から見て、汚れている所を中心に磨きます。部屋がたくさんあるから、全面を全力で拭いていると時間もかかるし、体力も持たないのよ」
 
と、コツを教えていただきました。スプレーを掛けながら、汚れを見つけては拭き取ります。
ピカピカに整えられた客室の裏側に、人の思いやりがこもった一つひとつの仕事があるんだなぁと、泊まるだけでは見えてこない気づきがありました。
落ち着く個室と整った共用スペースで充実の滞在
お手伝いの後は、宿泊する「さかとケ」の部屋を案内していただきました。「ryugon」の敷地の一角にある古い蔵を改装した建物が「さかとケ」。2階建ての内部には4つのシングルルームと共用のキッチン、洗濯機、ワークスペースが。お風呂は贅沢にも「ryugon」の大浴場を利用できます。
 
お部屋は一般的なビジネスホテルのシングルルームほどの大きさで、ベッドとデスク、一人掛けのソファもあり、落ち着いた雰囲気で安心して眠れそう。
キッチンはコンパクトながら調理器具、食器、炊飯器や電子レンジも完備。近隣の地元スーパーなどで新鮮な食材を買って来て自炊することができます。
キッチンスペースの壁には、これまで「さかとケ」を利用した皆さんが書き加えていった地域の地図も。発見した穴場や情報を教え合う仲間同士のコミュニケーションボードから、人とつながっていくあたたかさを感じました。
お手伝い以外の時間は自由に地域を探究
1日5時間のお手伝い以外の時間は、「ryugon」内のワーキングスペースで仕事をしたり、ライブラリーで読書したり、eバイクを借りて散策に出かけたりと思い思いに過ごすことができます。
歴史とお寺が好きな私は、ryugonから自転車などで行ける「雲洞庵」を拝観。苔むす境内の美しさに癒やされました。
水芭蕉や桜、夏は蛍の名所でもある銭渕公園でフォトウォークも楽しみました。
お手伝いをしながら関わることで、地域がいっそう近くなる
今回、初めて体験した宿のお手伝いでしたが、井口さんをはじめスタッフのみなさんが壁をつくらず本当に仲間のように受け入れてくださったことで、リラックスして臨むことができました。「ryugon」の舞台裏にほんの少し関わることができたおかげで、今までの「お客さま感覚」とは違う、働く方々への親近感やこの場所への愛着の兆しのようなものが芽生えたように感じました。
聞けば、ほぼ毎月1回「さかとケ」を利用して六日町に通っている方や、「さかとケ」でのインターンをきっかけにこのまちを気に入り、その後「ryugon」に就職して移住した学生さんもいるそうです。このワークインレジデンスの仕組みは、「帰る旅」のプログラムとして雪国文化圏の他のまちにも波及し、福祉施設で障害者の方々と働く体験ができる「いなりケ」や、秘境・秋山郷での古民家再生プロジェクトなど、広がりを見せています。
 
井口さんの「さかとケ」での次なる目標は、ハウスワークを地域の仕事にも拡大していくこと。例えば高齢化するまちの冬場の雪かきや、美しい水の源流を生み出す森林の保全活動など、地域により近づき、地域を一緒につくる仕事の創出を目指しているそうです。
エピローグ
雪国に雪のない季節に行って、楽しめるのだろうか? そんな私の無知な疑問は、今回の「さかとケ」での体験や井口さんとの出会いで見事に払拭されました。井口さんの言葉を借りれば「ミルフィーユ状に積層した」奥深い雪国文化が南魚沼にはあり、今回は探究できなかった織物や郷土料理などを、次回はぜひ知りたいと思います。そして何より、あの一面の水田で実った南魚沼の新米を現地で食べたい。次回はいつ頃行こうかと考え始めています。
 
取材・文:森田マイコ 撮影:宮崎純一
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